パラオの南西にあるペリリュー島。
ここは太平洋戦争のなかでも、とくに激しい戦闘が行われた場所のひとつです。
AKOさんはガイドとともに島を訪れ、戦跡を歩きました。
後編では、その体験と祈りの時間を綴っていただきます。
導かれるようにパラオへ — ひとり旅で出会ったやさしさと日本の名残り(前編)
激戦の地、ペリリュー島へ
次の朝はペリリュー島へ、ガイドさんとともにボートで移動しました。
第二次世界大戦ではパラオ本島も巻き込まれ、ペリリュー島も焼き尽くされた激戦の地だったことは知っていました。
しかし実際に島に足を踏み入れると、日本軍が造った数多くの精巧な防空壕や射撃の盾として使われたトーチカを目の当たりにし、防空壕のなかに入った瞬間、激戦の凄まじさを肌で感じ、圧倒されました。
壕の中に残る、筆舌に尽くしがたい記憶
アメリカで最も強いといわれていた海軍第一師団は、「三日もあればペリリューを陥落させられる」と公言していたそうです。
しかし日本軍は二か月もの間、猛攻に耐え、最後まで戦い続けたといいます。
昭和天皇が毎朝起きるたびに侍従に「ペリリューは大丈夫か」とお尋ねになったほど、この島は戦局において重要な拠点でした。
アメリカ軍が使用したナパーム火炎放射器は放射距離が100メートルにも及ぶ恐ろしい兵器で、それによって防空壕の入口を焼き払ったと聞き、狭い壕のなかで私は足が震えました。
しかし日本軍が作った防空壕はアリの巣のように緻密で、縦穴や横穴、いくつもの通路が内部に作られていました。
アメリカ軍が上空から600トンもの爆弾を投下し、ペリリューを平らな大地になるほど焼き尽くしてもなお、日本兵は生き延び、命懸けの戦闘を続けたといいます。
周囲をアメリカの艦隊に囲まれ、兵器も物資も一切届かないなかで、どれほど過酷な持久戦だったのか。
現地に立つと、言葉にできない思いが込み上げてきました。
戦局の状況を伝えるための軍犬はことごとく射殺され、日本軍が伝書鳩を使うと知ったアメリカ軍はペリリュー島の鳥という鳥をすべて撃ち落としたともいわれています。
ペリリューでの防空壕戦術は遠泳伝令によって伝えられ、後の硫黄島や沖縄戦にも活かされたとのことでした。

ただ静寂のなかに在るビーチ
日本軍がサンゴ礁の海から上陸してくるアメリカ軍をギリギリ100メートルまで引きつけて射撃し、上陸を阻んだというビーチも訪れました。
両軍の血で海が赤く染まるほどの激しい接近戦があった場所ですが、いまは自然を取り戻し、ただ静かな波が打ち寄せています。
そこに立つと、まるで音のない世界のような静寂が広がっていて、言葉は出ませんでした。ただ手を合わせることしかできませんでした。
慰霊碑には靖国神社からいただいた御神酒と線香、タバコ、お菓子をお供えし、静かに祈りました。
なお、お供物を置いて帰ることは禁止されているため、後から皆で分けていただきました。
また驚いたのは、80年以上前に海軍が造ったコンクリート構造物の強度でした。
軍の司令部は爆撃を受けても被弾した部分だけが抜け、建物そのものはびくともせず残っていたのです。
堅牢な建築技術に思わず見入ってしまいました。
ジャングルの一角には草に覆われた戦車やゼロ戦もひっそりと残っており、戦時下の凄惨さを強く感じました。
私は圧倒され、瞳孔が開いたままのような感覚で、言葉を失いながら戦跡を歩き続けていました。
ガイドさんの説明を聞きながら歩いているうちに、気がつくと夕方になっていました。

離れる瞬間の雨、そして虹
夕刻、帰りのボートに乗ってペリリュー島を離れた直後のことです。
その日はずっと青空だったのに、船が島を離れた瞬間、雨がサーッと音を立てて降り始めました。
乾季でもスコールはあるそうですが、タイミングがあまりにも不思議でした。
まるで静かに降り注ぐ甘露のような雨。
大きな粒となって海に落ちる雨は、まるで涙雨のようでした。
しばらくして雨が止むと再び空は晴れ、大きな虹がかかっていました。
そのとき私の頭のなかでは、なぜか「海ゆかば」が繰り返し流れていました。
涙がにじむ、慰霊の旅でした。
最北端の岬で、還らぬ家族に想いを馳せる
翌日、私はパラオ本島の最北端へ向かいました。
祖母の兄がフィリピン沖で戦死し、日本へ還って来なかったためです。
車で行けるところまで進み、そこからは歩いて岬のぎりぎりまで向かいました。
御神酒とお菓子、線香を持って。
最北端の小高い丘からは、ペリリュー島、パラオ本島、そしてフィリピン沖まで、四方の海が一望できました。
柔らかな芝生と、涼やかな風が吹く静かな場所でした。
かつて戦火に包まれたであろう海を眺めながら、芝生に座り、私は気が済むまで静かな時間を過ごしました。

初めてのシュノーケリング
旅の途中で友達になった人から、パラオの世界遺産の海に来たならシュノーケリングやダイビングをしないともったいないと勧められ、シュノーケリングツアーにも参加しました。
実は私は泳げませんし、シュノーケリングも初めてでした。
しかし実際に海に入ってみると、魚たちと海の美しさに息を飲みました。
どこまでも透明な海、色とりどりの魚、美しい珊瑚礁。
ウミガメも隣で泳いでくれました。
美しい海の中で過ごす時間は、本当に特別な体験でした。
海もジャングルも本当に美しく、一度は大東亜戦争で焦土となったこの島々も、長い年月をかけて少しずつ傷を癒してきたのだろうと感じました。
祈りと感謝、そして「日本人」としての誇り
最後に、パラオという国の不思議さを感じた出来事があります。
日本人だと分かると、どこを歩いていても、スーパーで買い物していても、車で通り過ぎただけでも、大人から子どもまでみんな笑顔で手を振ってくれるのです。
今回の旅の最初は、なぜパラオなのか自分でもわかりませんでした。
しかし旅を終える頃には、この旅は「祈りと感謝」の旅だったのだと気づきました。
戦争とは渦中においては命を懸けた戦いです。
散りゆく運命を前に、「日本の未来に繋がるならば七度生まれ来て必ず君国に報ゆる覚悟」という陸軍曹長の残した言葉があります。
命を賭して戦った英霊たちは、散った瞬間まで私たちと同じ生身の人間でした。
英霊に託された未来を生きる私たちは、何不自由ない生活を当たり前のように享受しています。
しかし戦争のことや歴史、靖国神社のことを正しく知ることで、今生で日本人に生まれた誇りに回帰し、日本人として強く正しく生きていきたいと感じるのです。
そしてこの旅は、心身ともに深く癒される時間でもありました。
パラオを離れるとき、私は「さよなら」ではなく「また帰ってくるね」と約束していました。
不思議と、そんな言葉が自然に出てきたのです。
text: OMOMUKI magazine / AKO KATO
歴史は書籍や映像のなかだけにあるものではありません。
場所を訪れ、人と出会い、空気を感じることではじめて見えてくるものがあります。
AKOさんの旅は、過去を見つめながら、いまをどう生きるかを問いかけてくれるものでした。
パラオという国が、なぜ日本人に特別な笑顔を向けてくれるのか。
その理由を、全身全霊で感じられる旅だったのかもしれません。
ペリリュー島の戦いに残る、日本軍と島民との逸話はコチラ。


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