エプスタイン事件は『BANANA FISH』と同じじゃん!と思った人、どのくらいいる?

Japan

1985年。
少女漫画誌に、とんでもない物語が連載された。

ニューヨークの裏社会。
美貌の少年アッシュ・リンクス。
マフィアのボスによる性的支配。
国家機関が絡む謎のドラッグ『BANANA FISH』。

当時それは、「少女漫画の枠を超えた衝撃作」と呼ばれた。
けれど2020年代を生きる私たちは、ふと立ち止まってしまう。

――これ、どこかで見た構図では?

そう、エプスタイン事件だ。

権力者が「所有」する構造

『BANANA FISH』の核にあるのは、ディノ・ゴルツィネによるアッシュの「所有」だ。
愛ではない。保護でもない。
支配と搾取だ。

少年は価値ある「資源」として扱われる。
美貌、知性、若さ――それらは権力者のために消費される。

エプスタイン事件でも繰り返し語られたのは、グルーミングという言葉だった。
経済的に脆弱な少女たちに近づき、信頼を築き、関係を固定化する。
その関係はやがてネットワーク化され、閉じた世界の中で循環していく。

ここで重要なのは「個人の逸脱」ではない。
構造だ。

閉じた権力圏、紹介制のネットワーク、沈黙の強制。
『BANANA FISH』もエプスタイン事件も、描いているのは同じシステムの輪郭だ。

セックスは通貨になる

作中でゴルツィネは、少年の身体を欲望だけでなく、交渉材料として扱う。
権力者の弱みを握ることは、政治よりも強い武器になる。

エプスタインのケースでも、
「誰が島に行ったのか」
「どの写真が存在するのか」
という問いが、世界をざわつかせた。

性的関係はプライベートな出来事のはずなのに、
それが“記録”されることで、力の源泉になる。

欲望と政治が交差する地点。

吉田秋生は、それを80年代に描いていた。

国家の影

『BANANA FISH』にはCIAが登場する。
ベトナム戦争、薬物実験、情報戦。

少女漫画でここまで国家権力を絡めるのか、と当時は驚かれた。

エプスタイン事件でも、

資金の出所、諜報機関との関係、
なぜここまで長く守られていたのか――
そうした疑問が世界中で議論された。

私たちは陰謀論を語りたいわけではない。
ただ、「なぜ可能だったのか」という問いは残る。

個人が人外だっただけで、
これほど巨大なネットワークは成立するのか?

決定的に違うもの

けれど、両者には決定的な差がある。

『BANANA FISH』には英二がいる。

暴力の世界の中で、
アッシュを「もの」ではなく「ひと」として見る人。

救済とは恋愛ではない。
誰かがあなたを道具ではなく、人間として扱うこと。

現実の事件に、そんな物語的光は存在しない。
記録は公開され、議論は繰り返されるが、
被害者一人ひとりの物語が丁寧に救われるわけではない。

フィクションは残酷だ。
でもフィクションには終わりがある。

現実には、まだない。

なぜ少女漫画が先に描けたのか

興味深いのはここだ。

なぜ80年代の少女漫画が、
現代の権力構造を思わせる物語を描けたのか。

それは、少女漫画がずっと
「人が誰かに力を握られる瞬間」を描いてきたジャンルだからだ。

恋愛で、相手に嫌われたくなくて本音を飲み込む。
経済的に頼らざるをえなくて、関係を断ち切れない。
「好き」と「怖い」が同時に存在する。

そうした関係性のなかにある力の偏り――
それは決して恋愛だけの話ではない。

力を持つ側と、持たない側。
守るといいながら縛る構造。
逃げたくても逃げられない心理。

それは家庭にも、職場にも、国家にもある。

少女漫画は、そうした“見えにくい力関係”を
感情の物語として描いてきた。

だからこそ、権力と搾取のニュースを見たとき、
私たちは物語の既視感を覚えてしまうのだ。

フィクションは予言ではない

吉田秋生が未来を予言したわけではない。

構造は昔からあった。
ただ、私たちが見ていなかっただけだ。

漫画は、ときどき社会よりも早く真実の輪郭を掴む。
それは誇張でも扇動でもない。
感情に焦点を当てることで、システムの歪みが可視化されるからだ。

エプスタイン事件は『BANANA FISH』と同じ――
そう感じた人は、きっと少なくないはず。

それは偶然ではない。

私たちがようやく、
物語の向こうにあった「構造」を理解し始めただけなのだから。

MAYO
MAYO

『BANANA FISH』私の心に刺さった漫画ベスト3のひとつ♡

2018年にアニメ化されたので、動画配信サイトで観てみて!

text: OMOMUKI magazine / CHAKA MAYO

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