南の楽園として知られるパラオ。
しかし、この島には日本と深くつながる「もう一つの歴史」があります。
今回、OMOMUKI magazineに寄稿してくれたAKOさんは、ある日ふと「パラオに行こう」と思い立ち、わずか一週間後にひとり旅へ出発しました。
現地で出会った人々のあたたかさ。
街のあちこちに残る日本語。
そして、第二次世界大戦の激戦地となったペリリュー島。
なぜパラオでは、日本人だとわかると笑顔で手を振ってくれるのか。
この旅は、単なる海外旅行ではなく「祈りと感謝の旅」でもありました。
AKOさんの等身大の言葉で綴られる、パラオの風を感じてください。
「パラオに行こう」―ふとした直感からはじまった旅
仕事をしていたら海外旅行には行けないだろうな……と、長年思い込んでいました。
ところがある日、ふと気づいたのです。
「あれっ?連休と有給を使えば行けるな」と。
そのとき真っ先に頭に浮かんだのが、なぜか「パラオ」でした。
気が付いたら一気に飛行機のチケットを取り、ホテルとレンタカー、ペリリュー島のガイドを手配し、旅程が決まりました。
出発は決めてからわずか一週間後。
小さなスーツケースに最低限の着替えを詰めて、旅立つことになりました。

靖国神社で授かった「お供物」
出発の前日、私は報告とご挨拶のため靖国神社を参拝しました。
すると、以前勉強会で講師をされていた宮司さんがいらっしゃったので、
「明日からパラオ本島とペリリュー島へ行くのですが、お供物は何が喜ばれるでしょうか」と尋ねてみました。
すると宮司さんは、
「それなら靖国の御神酒を持っていきなさい」とおっしゃいました。
祖母の兄がフィリピン沖で戦死し、遺骨が戻っていないこと。
先祖の部隊の話、日本の社会情勢のことなども少し伺うことができました。
帰り際、宮司さんは玄関まで来てくださり、
「気をつけて行ってらっしゃい」と見送ってくださいました。
私は深く頭を下げて、靖国神社を後にしました。

つたない英語でも何とかなる(笑)
いざ出発。
成田からグアム経由でパラオへ向かいます。
私は英語など話せないはずなのに、不思議なことに、日本を出た途端に英語で話せてしまう。
パラオは親日国で、日本語の単語がいくつか残っているものの、ホテルやお店、ガソリンスタンドまで基本的には英語です。
それでも私のつたない英語でなんとか伝わる奇跡。
きっと相手には「ニホンカラキマシータ」くらいにしか聞こえていないだろうと思いつつ、
「まあ伝わればいいか」と思っていると、意外と何とかなるものです。

昭和の空気が残るコロールの街
到着初日は、左ハンドル・右車線の運転に慣れるための予備日として、コロール市内をレンタカーでゆっくりドライブしました。
どこまで行っても海が美しく、街にはどこか昭和のような素朴な空気が残っています。
途中、きれいな海の公園を見つけてビーチを散歩していたら、海で泳いでいた現地のおばあちゃんに声をかけられました。
「どこから来たの?」
「I came from Japan」
そう答えると、なんと
「私の祖父は日本人だよ」と言うのです。
さらに「一緒に泳ごう」と誘われ、透明なエメラルドグリーンの海で小一時間、おばあちゃんと海水浴をしました。
黄色い縞模様のかわいい魚が泳いでいました。
初日からあたたかく迎えてくれたパラオの人々。
その笑顔に触れたとき、私は自分がこれまで仕事でも何でも、肩に力を入れすぎていたことに気づいたのです。

直感が救ったスリルと、人のあたたかさ
ところが、このあと少しスリリングな出来事が起きます。
チェックインまで時間があったので、予約していたホテルの場所を先に確認しに行きました。
すると、門扉がギラギラの金縁と赤色で、まるで中華街のような雰囲気。
駐車場の車や宿泊客を見て、どうやら中国人経営のホテルだと気づきました。
今の国際情勢を考えると、宿泊客も全員中国人という状況は少し不安です。
私は直感的に思いました。
「ここは泊まらないほうがいい」
ひとり旅の私は、もしここで何かあっても誰も気づかないかもしれない。
そう思ったら、背筋がぞっとしました。
近くのスーパーに駆け込み、レジのパラオ人の女性にホテル名を伝えて聞いてみました。
すると彼女は怖い顔で、
「ダメダメ、そこデンジャーね」
そう言って、地元の人が経営している安全な宿を紙に書いて教えてくれたのです。
すぐに電話をして、無事に予約。
ほんの30分ほどで問題は解決しました。
「神様の采配かな?」
そう思わずにはいられない出来事でした。
「ツカレナオース!」で乾杯する夕暮れ
夜は日本人とパラオ人が共同経営するお店でディナー。
シャコ貝の刺身がとてもおいしく、現地の人も醤油で刺身を食べるのだそうです。
夕暮れのコロールのビーチを散歩していると、仕事を終えたパラオの人たちが、どこからともなく集まってきます。
両手には小さなおつまみと缶ビール。
「プシュッ」とビールを開ける音。
そして聞こえてくる言葉。
「オツカレ〜」
パラオでは
乾杯=ショートツ
ビール=ツカレナオース
大丈夫=ダイジョウブ
こんな日本語がいまでも残っているそうです。
みんな静かにビールを飲み、語り合いながら夕暮れを過ごす。
その光景はまるで「昭和の夏の縁側」のようでした。

text: OMOMUKI magazine / AKO KATO
夕暮れのビーチで聞いた日本語の乾杯の声。
見知らぬ旅人に笑顔で手を振ってくれる人々。
パラオで過ごした最初の時間は、まるで遠い昔の日本の風景に触れているような不思議な感覚でした。
しかし、この島々にはもう一つの歴史があります。
それは、第二次世界大戦の激戦地として刻まれた記憶です。
後編では、AKOさんはボートに乗り、その歴史の舞台となったペリリュー島へ向かいます。
美しい海の向こうに残された、もう一つのパラオの物語を訪ねて。


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