しりあがり寿先生の〝脱衣婆〟は、ダツエばあちゃん
しりあがり寿先生の名作コミック『真夜中の弥次さん喜多さん』
読んだことはあるでしょうか?
ジャンキーな喜多さんと、恋人の弥次さんが
「お伊勢さん(伊勢神宮)」まで参る旅路の
夢と現としりあがり先生の死生観が入り混じったコミカル幻想作品です。
シリーズ続編『弥次喜多 in DEEP』に
あやまって弥次さんを殺めた喜多さんが
幻覚きのこの森で弥次さんの夢を見続け…
三途の川に行き着いた弥次さんは
あの世の門番『脱衣婆』と、
「生き返りたい」「それはならぬ」の押し問答を繰り広げる..
切ない場面があります。

『奪衣婆(だつえば)』は、冥界の閻魔大王に仕える鬼の形相をした老婆。
三途の川辺の柳の木=衣領樹(えりょうじゅ)の下にいて
亡くなった人の衣服をはぎ取り、枝でその人の罪の重さを計ります。
ベースの世界観は、仏教の地獄信仰。
地域により、閻魔大王と夫婦にもなります。
浮世絵に登場する奪衣婆
弥次喜多の原作は
江戸時代の滑稽本『東海道中膝栗毛』(作者・十返舎一九)。
色男の喜多さんは「蔭間(かげま)」と呼ばれる男娼として描かれます。
当時の性風俗に男色が普通にあったことがわかります。
遊郭のあった色街では、
胸をはだけた奪衣婆像が
縁起の良い『商いの神様』ポジションでした。
浮世絵師・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は
〝 閻魔大王を踏み台にして枝に短冊を結ぶ遊女と
奪衣婆の白髪を抜く若い美男子〟
『閻魔・奪衣婆図』という
ユーモラスな作品を描いています。
また、
江戸時代には奪衣婆への願掛けが大流行。
「江戸で一番いい男と夫婦になれますように」
「背が高くなりますように」など
庶民に願掛けされ過ぎて
耳をふさぐ奪衣婆の浮世絵まで残っています。
人が一生を終えた最後の審判のようなコワイ存在ですが、
人の世に溶け込み愛されてきた一面が感じ取れます。
北の奪衣婆に会いにいく
北海道の道北地域に、知る人ぞ知る一風変わった石像があります。
その石像は、お寺の移転工事中に土中から発掘されました。
発見した当時、その場に居合わせた人達はさぞかしギョッとしたでしょうね。
だって、人の顔の二倍以上もある大きな頭をした人型の石像だったのですから。



土中から発掘された人型の石像は『奪衣婆』(だつえば)でした。
この奪衣婆の石像は、留萌市の曹洞宗のお寺の境内にそっと安置されています。
そもそも奪衣婆像が埋められていたことが不思議ですよね。
というわけで、お寺について調べてみました。
寺院名: 正覚寺
所在地: 留萌市寿町1丁目
宗派: 曹洞宗
山号: 臥竜山
本尊: 阿弥陀如来、勢至観世音
歴史
慶応元年: 相馬四郎兵衛が福島町で浄土庵を開設
明治4年: 現在の寺号「正覚寺」を公称
開山: 松前法幢寺の24世、松永大孝を迎え、法幢寺の末寺となる
背景: ルルモッペ漁場での死没者の葬祭仏事に苦心していたことが創建の直接的な理由
移転: 創建当初はコタン浜にあったが、明治21年に大町へ、明治31年に現在地へ移転
お寺自体は元々、留萌市内の別な場所にあったことがわかります。
今の場所に移転したのは明治31年ということなので、
奪衣婆は、明治20年代後半、この場所への移転工事の最中に
発見されたことが判明しました。
当時、お寺さんも、工事に関わった人たちも
まさか土中にこのような石像が埋められているとは
想像もしていなかったでしょう。さぞ驚いたでしょうね!!
ところで奪衣婆の隣にある石碑は〝三界萬霊碑(さんかいばんれいひ)〟と言います。
明治時代、奪衣婆と一緒に土中から発掘された石碑です。
この石碑は、飢饉や戦(いくさ)などで亡くなった人々を弔うために建てられたもので
歴史的にも貴重な資料になり得る珍しいものです。
三界萬霊碑には、「天保三年」という表記があります。

異様な感じがする原因の一つは
顔の中心にあるはずの
「鼻」がないためです。
埋められていた間に
欠けて紛失してしまったのでしょうか。
胸をはだけ、両手に、計る衣を持つ奪衣婆の像。
メドューサの蛇の頭髪のように一本一本、彫られた髪の毛に凄みを感じます。



天保(てんぽう)時代は、文政時代と弘化時代の間にあった時代です。
西暦でいえば1831〜1845年までの期間になります。
天保時代といえば、思い浮かぶのは『天保の大飢饉(だいききん)』ですね。
この飢饉は天保4年(1833)に始まり天保10年(1839)年まで約6年間に渡り
続きました。天保6年(1835)から天保8年(1837)の3年間に飢饉の規模は大きくなり、
飢饉の被害が大きかった東北地方をはじめ関東全域〜関西、西日本まで、
日本各地で広範囲に広がりました。
大雨による洪水や冷害の大凶作、疾病と食料難で人々は喘ぎ苦しみ、非常に多くの人が
命を落としています。さながら地獄絵図だったと想像します。
伝染病や餓死を逃れるため、本州から命からがら蝦夷地(北海道)へ避難して来た人も
いると言います。避難者の多くは密かに海を越えて北海道へ入って来たそうで、
箱館(函館)の人口が一時的に増えたという話が伝わっています。
箱館では密航者といえども理由が理由のため、一時的に保護して米や銭をもたせて
本州に帰らせる対策をとったそうです。しかし中には、飢饉のある本州にはもう帰りたくないと
そのまま密かに北海道に住み着いた人たちもいたそうです。
飢饉を逃れて移住した本州の人々を受け入れた話は、函館や北海道内各地で
ちらほら残っていますが、そのほとんどは口伝えで記述されているものは
あまりないのが現状です。しかし北海道内でも天保時代に飢饉が起きているところを
見ると、避難者の中に伝染病を運んできた人がいて、それが広まったのではないかと
考えるのは順当な気がします。
そもそも北海道で奪衣婆信仰というのは非常に珍しいことです。
留萌で明治時代に発掘された奪衣婆は、本州からの避難者が地元の人たちと
飢饉の終焉に祈りや願いを込めて作ったものではないかと想像します。
天保時代の奪衣婆と三界萬霊碑が現存しているって、とても珍しいことだと思います。
この奪衣婆と三界萬霊碑にことが気になり、地元郷土史や歴史にまつわる資料を
調べてみましたが、残念ながら、この奪衣婆に関する詳細を記したものはありませんでした。
画像の『石仏巡礼』の書籍が一番詳しく記してあるものでした。
奪衣婆とアマビエ
ところで 奪衣婆と、
コロナ渦中に注目された妖怪・アマビエって
似ていると思いません?
肥後国(現・熊本)の海上に出現したアマビエは
豊作や疾病に関する予言をしたという
疫病封じの妖怪です。
奪衣婆にも
疾病除け、咳止め(子供の百日咳など)に効き目ありという
民間信仰の歴史があります。
飢饉で多くの人の命が失われていく中、
人々はこれ以上、被害が広がらないよう必死の願いと祈りを込めて
奪衣婆の像をつくったのかもしれません。
群馬の甘楽市には
奪衣婆を祀ったお堂の近くを
〝三途の川〟(三途川)が流れる場所があるそうです。
奪衣婆信仰の篤さを感じさせますね。
この川の橋を往復すると、
三途の川から蘇ったことになる…!
まさに、しりあがり先生の弥次喜多の世界。
弥次さん喜多さんみたいな飲み友達がいるので
一緒に渡ってみたいような。
text: OMOMUKI magazine/ CIMACUMA SAORI
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