前回の 「ジャッジしない」って、具体的にどうするの? の続編です。
スピリチュアルや世界の裏側に興味のある人にはお馴染みの「目覚める」という言葉って、ふんわりとした意味で捉えている人が多いのではないでしょうか。
人によって定義も大きく異なるので、いろいろな意味で使われているのが現状です。
ちなみに大辞林ではこのように定義されていました。
めざめる【目覚める】
① 眠りから覚める。 「物音に-・める」
② 活動していなかったものや鈍っていたものがはたらき始める。 「性に-・める」 「町が-・める」
③ 今まで見すごしていた物事の、価値や必要性に気づく。 「学問に-・める」
④ 好ましくない状態から本来の自分に立ち返る。自覚する。 「現実に-・める」
大辞林のなかには現在の私たちに必要な「目覚める」の意味が含まれていないので、新たに⑤を考えてみたいと思います。

大変革の2025年を迎えて人類が精神的に進化するためには、目覚めることが必要です。
まずは無意志的・無意識的な反応から、意志的・意識的な反応を選択すること。
自分が人間としてどう在りたいのかを意志的・意識的な反応によって創造することができます。
そして、意志的・意識的な反応を選択する主体は何を土台にしているのか、という観点がとても重要になります。

私たちが 常識 と呼んでいるものは何でしょうか。
集合意識とは、フランスの社会学者デュルケームによって用いられたことばです。
それぞれの社会や集団で共有される信念やルールで、個人の意識とは区別される意識です。
共同意識とも呼ばれています。
(集合的無意識は、スイスの精神科医ユングが提唱した心理学用語で、集合意識は社会学用語です。
ココでは社会の働きを説明する集合意識を使っています。)
常識とは具体的に、伝統・慣習・道徳・法律などで示されるものですが、それぞれの集団によっても時代によっても異なります。
普遍的な真理ではありません。

一方で、子どもが成長する自然過程では、親のしつけや社会の共通意識を理解して身につけることが必要になり、上手に・早く・深くできることに価値が置かれます。
これは競争社会において、勉強のできることが評価されるのと同じ仕組みで、
子どもがルールを守れること・勉強ができることに価値があり、ルールを守れないこと・勉強ができないことに価値がない、とする仕組みがあたり前のように考えられています。
このような二元性で構築された競争社会では、いじめが起こり、弱者を切り捨てることがその基本構造となります。
人間が無意志的・無意識的に成長する自然過程では、二元性によるジャッジ、つまり優劣・善悪・正誤・損得などといった自分にとっての益・無益を判断します。
この二元性に基づいた人間社会の基本構造は、サルやゴリラの集団社会と中身は変わりません。
彼らは集団内の順位の上の者に従うというルールで生活し、従わなければ制裁が待っています。
これは子どもがルールを守れること・勉強ができることに価値があり、ルールを守れないこと・勉強ができないことに価値がない、と評価する仕組みはサルやゴリラの集団と同じ構造となっています。
次回へ続きます。
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