魂は身体で泣く─イスラエルの旅で体験した、過去生との邂逅

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マサダの頂上で、私は泣いた。

正確には、泣かされた。

感情が動いたわけじゃない。

頭で何かを考えたわけでもない。

気がついたら、涙と嗚咽が出ていた。

自分でもドン引きするくらい、急に。

標高450メートル、死海を見下ろすあの岩山の上で、私の身体が突然何かを「思い出した」んだ。

イスラエルとパレスチナを旅した6月。

カバラの連載を書き続けてきた私が、カバラ発祥の地に降り立った。

クムランの洞窟も見た。

死海文書の原文が特別公開されていて、2000年前のテキストを肉眼で見た。

それだけでも十分すぎる体験なのに、マサダで私の身体は、私の意識より先に動き出した。

後から考えた。

あれはなんだったんだろう、と。

そしてひとつの答えに辿り着いた。

ネフェシュが泣いていたんだ、と。

約2,000年前に、クムラン教団によって書かれた本物の死海文書。羊皮紙に記されたヘブライ文字は、今もなお鮮明に残っている。

魂には「層」がある

カバラでは、魂をひとつの塊として捉えない。

魂には段階があり、層がある。

代表的な三層構造がこれだ。

ネシャマー(נְשָׁמָה)最上位の魂。神との繋がり、直観、霊的な叡智。言語化できない領域。
ルアッハ(רוּחַ)中間の魂。感情、思考、道徳心、自我意識。
ネフェシュ(נֶפֶשׁ) 最も根源的な魂。身体に宿る生命力、本能、肉体記憶。

簡単に言うと、ネシャマーが「神に近い魂」、ルアッハが「感情と思考の魂」、そしてネフェシュが「身体と直結した魂」だ。

マサダで起きたことを、この三層で読み解くとこうなる。

私のルアッハ(感情・思考)は何も反応していなかった。

「悲しい」とも「懐かしい」とも思っていない。

頭は普通に観光モードだった。

なのに、ネフェシュ─身体に宿る最も原初的な魂の層─が先に反応した。

理性が追いつく前に、身体が泣いた

これ、めっちゃ重要なポイントだと思う。

ネフェシュは、思い出すために言語を必要としない。

概念も、物語も、いらない。

ただ「知っている」という反応が、涙と嗚咽という形で身体から出てくる。

マサダから望む砂漠と、遠くに見えるのが死海。山頂の砦へはロープウェイで昇る。

マサダで何があったのか

少しだけ歴史の話をさせてほしい。

73年、死海のほとりにそびえる岩山マサダで、約960人のユダヤ人がローマ軍に包囲された。

彼らはシカリイ派と呼ばれる抵抗勢力で、第一次ユダヤ・ローマ戦争の末期、最後の砦として籠城していた。

ローマ軍は巨大な攻城塔を築き、陥落は時間の問題となった。

その前夜、指導者エレアザル・ベン・ヤイルはこう演説した。

「奴隷として生きるより、自由な死を選ぼう」と。

そして彼らが選んだ方法が、かなーり凄絶だった。

くじを引いて選ばれた10人が、残り全員を─妻も、子どもも、隣人も─自らの手で殺す。

次に10人の中でくじを引いて、最後のひとりが9人を殺し、自分も命を絶つ。

960人の命を、10人の手で執行した。

私がマサダで感じた「やりきれなさ」は、そこだった。

敵に敗れた悲しみじゃない。

愛する家族も、共同体すべての人も、自らの手で死を完遂しなければならなかった者の、あの夜の絶望。

ネフェシュは、それを覚えていた。

約2,000年前、ユダヤ人たちが最後の砦としたマサダ。今もなお、その壮絶な歴史を静かに伝えている。

ギルグル─魂は旅をする

ここで、連載④でも少し触れた概念をもう一度取り上げたい。

ギルグル(גִּלְגּוּל)だ。

ギルグルとは、カバラにおける輪廻転生の概念。

「ギルグル」というヘブライ語は「転がる」「循環する」という意味を持つ。

魂は一度の人生で終わらない。

何度も転生を繰り返しながら、ある目的に向かって旅をしている。

このギルグルの思想を体系化したのが、前回の連載でも登場したイサク・ルリア(1534〜1572)だ。

彼の弟子ハイム・ヴィタルが著した『生命の書』には、魂の転生に関する詳細な記述がある。

ルリア・カバラーのギルグル論のポイントをまとめるとこうなる。

ニツォーツォット 魂は神から分かれた「光の欠片」。この世に降りるたびに、何らかの「課題」を持っている。
ティクーン(תִּיקּוּן)課題が完了しないと、再び転生して続きを果たす。この修正・修復のプロセスをティクーンと呼ぶ。
上昇ティクーンが完了した魂は、より高い次元へ上昇する。

つまり私たちは、何かを「修正」するためにこの世に来ている。

そしてその課題は、ひとつの人生では終わらないことも多い。

前世で果たせなかったティクーン。

前世で負った魂の傷。

それをネフェシュは、身体の記憶として持ち越す。

だから特定の場所、特定の音楽、特定の匂いに触れたとき、頭より先に身体が反応することがある。

マサダで私の身体が泣いたのは、ネフェシュがまだ、あの夜を覚えていたからかもしれない。

キブツで泣いたこと

時系列は逆だがマサダの前日、私はキブツを訪れた。

キブツ(קִיבּוּץ)は、20世紀初頭にシオニズム運動の理想として生まれた農業共同体だ。

財産の共有、育児の共同化、完全な平等主義─そういう「理想の社会」を実現しようとした場所。

今も形を変えながら各地に残っている。

子どもたちが無邪気にはしゃいでいた。

畑があった。

笑い声があった。

穏やかで緑豊かな場所だった。

そこで、泣いた。

マサダとは種類の違う涙だった。

マサダの涙が痛みの放出だとしたら、キブツの涙は魂の安堵だった。

「ああ、続いていたんだ」という感覚。

あの夜、あの岩山で命を絶った人たちの子孫が、ここで生きている。

共同体を作り、土地を耕し、子どもを育てている。

カバラ的に言えば、これもひとつのティクーンだと思う。

マサダで砕けた「器」の光の欠片が、2000年という時間をかけて集まり直して、キブツという形をとった。

ルリアの「器の破砕(シェヴィラー・ハ=ケリム)」から「ティクーン」へ─その大きなサイクルを、私はイスラエルの地で身体ごと体験した気がしている。

キブツに体験学習に来ていたユダヤ人の子どもたち。薪釜でパンを焼いているところ。

「思い出す」ということの意味

カバラでは、人間が生まれてくるとき前世の記憶は「忘れさせられる」と言う。

なぜなら、もし全部覚えていたら今世の課題に集中できないから。

でもネフェシュは消えない。

身体は、思い出す。

それが何かの「場所」であったり、「音楽」であったり、「匂い」であったりする。

論理じゃなく、言語じゃなく、ただ身体が「知っている」という反応として現れる。

私はカバラの連載をずっと書いてきた。

生命の樹を、セフィラを、ルリアの思想を、秘密結社との関係を。

全部「頭」で理解してきたつもりだった。

でもマサダで初めて、カバラを「身体」で知った気がした。

ネフェシュの記憶。

ギルグルの旅。

ティクーンという名の修復。

これは概念じゃなかった。

あの岩山の上で、私の身体が泣きながら教えてくれた、リアルな話だ。

あなたにも、きっとある。

頭より先に身体が反応した瞬間。

理由はわからないけど、なぜか涙が出た場所。

説明できないけど「知っている」と感じた何か。

それはもしかしたらあなたのネフェシュが、ギルグルの旅の途中で何かを「思い出している」サインかもしれない。

マサダ北宮殿の最下層テラスは、おそらく神殿だったところ。約2,000年前、ヘロデ大王が断崖絶壁に築いた壮麗な宮殿の一部。
MAYO
MAYO

イスラエルへ行くと決めたとき、正直こんな旅になるとは思っていなかった。

マサダで自分でもドン引きするくらい号泣するなんて(笑)。

でもおかげで、私の核にあった重いカルマが修復され、すっきりさっぱり軽くなりました♪

魂の話は、頭で理解するより先に、身体が教えてくれるものなのかもしれない。

text: OMOMUKI magazine / CHAKA MAYO

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