「ジャッジしない」って言葉、聞いたことがありますか?
スピリチュアル好きな人や、ヨガやマインドフルネスに取り組んでいる人にはお馴染みの言葉ではないでしょうか。
「ジャッジする=判断する」
ジャッジする対象は自分自身、他者、環境、社会、などなど、私たちはあらゆる物事を判断しています。
日々の生活のなかでも私たちはジャッジを積み重ねているので、生きる上での基盤になっていると言えます。
たとえば、
外出するときは靴を履く。
冬は道路が凍結しているから、スピードを抑えて運転する。
今日は子どもを叱ることが多かったので、明日は褒める回数を増やそう。
〇〇さんは人の噂話が好きなので苦手だ。
朝起きてから夜寝るまでの間に、数えきれないほどのジャッジを瞬時に行いながら私たちは生きています。
ジャッジには大きく分けて、「生きるか死ぬか」と「良いか悪いか」に分類できるのではないでしょうか。
「生きるか死ぬか」は人類の誕生から長い時間をかけて繰り返されてきた、生き残るために必要な判断です。
その一瞬の判断で命を落とすことのあった、過酷な環境のなかで培われた人間の生存本能がベースになっています。
「良いか悪いか」は、「生きるか死ぬか」に心の仕組みが加わって、人間の歴史的状況と集団生活のなかで生まれた概念ではないかなと考えています。
なぜなら集団生活のなかで村八分になったり追い出されたりすると死活問題なので、集団が助け合って生きて行くために必要な、倫理感から生み出された「良いか悪いか」のジャッジが必要になります。
ちなみに紀元前1000年頃のペルシャで誕生した人類最古の宗教「ゾロアスター教」は、善悪二元論の思想に基づいていました。
対人関係でこの「良いか悪いか」の善悪二元論から脱出できないと、自分と自分の関係、自分と相手との関係、そして自分と社会の関係に置いても苦しさの増す生き方になってしまうので、私の採用している考え方をご紹介したいと思います。
この考え方は私のはじめてのメンターだったカウンセリングの先生に、25年近く前に教わったやり方です。
他者を「良いか悪いか」でジャッジしてダメな相手を切り捨てるのではなく、ダメな相手を理解するために人間の総体像に位置づける。
なぜならこの作業は人間の本質を理解するために重要だから。
ジャッジの基準は「良いか悪いか」だけではなく、損得、善悪、優劣、上下、清濁など、なんでも当てはまります。
自分にプラスにならない相手とは距離を置いて付き合う、というパターンは一見スマートなやり方ですが、「ジャッジしない」ということからは離れています。
ニュースで話題になるような罪を犯した人を、「犯罪者=悪人」と決めつけて、思考停止になることも同様です。
ネガティブな側に捉えてジャッジしてしまった他者を、人間の総体像に位置づける作業をすることは、自分の持つ人間像を広げて深めることです。
これは自分自身にも当てはまります。
ネガティブで受け入れがたい自分をも人間の総体像に位置づける、つまり理解して受け入れるということに繋がります。
ジャッジとは分離することであり、人間の総体像に位置づけることは統合することと言えます。
つまり他者を批判することも褒めることもジャッジです。
ジャッジして、そこから理解を深めて人間の総体像に位置づけ、最終的にあるがままを受け入れる、というところまで進められると理想ですが、私もできたりできなかったり(笑)。
とくに娘に対してはジャッジが多くなってしまうので、意識的に取り組んでは失敗を重ねている日々です。
次回はこの考え方に基づいて、25年前の犯罪事件について書いた当時のレポートをシェアしたいと思います。
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